ふつう

 

私たちの中にある、「ふつう」というものさし。

 

「ふつうはOOでしょ。みんなそう。」

「ふつうこういう時はXXしないのに、なんで!?」

 

無意識に口にしている。

 

その「ふつう」はどこから来たのだろう?

 

 

国・文化、宗教、出身地、家族、世代、性別、習慣 etc. 

 

その物差しを決める基準はそれぞれ。私たちはいくつもの物差しを持っている。

 

 

その物差しを他人と共有していると感じるとき、私たちは一種の帰属意識・仲間意識を感じる。安心感。

 

でもそれらに縛られ、そのグループに "fit" するためや、周りの期待する自分像に答えるために無理に幅を合わせるのは、違う。

 

自分と違う物差しを、たまたまひとつ持っているからといって、誰かを意見・批判するのも、違う。だって起源(ソース)は一緒なのだから。

 

ヒトの数程ある「ふつう」

 

 

自分の中に流れる”ダウンビート”

全身で、内側で、感じているはず。無視できないはず。

そのビートからずれたら、だってなんか気持ち悪いでしょ。

だからそれに従って行進すればいい。

 

それと同じように、

周りの人にはその人のダウンビートが流れている。

なんで?どうして?

説明を求めなくっていい。

違っていい。

 

 

 

 

そしてまた、過去の自分や’いつも’の自分の物差しで、今の自分を計るのも、

違う。

 

普遍・絶対的な基準=愛(やさしさ)さえ根底にあるのならば、

選択=表現方法は毎回違っていい。

自ずと’今の’正解が導き出せるはず。

いつもおんなじ選択をして、おんなじ事を、おんなじ順番で、おんなじ方法で

しなくたっていい。

そもそも勝手に自分が作り上げた ’マニュアル’ 通りでない事は、間違いとは違う。

 

 

「今日はこの辺でいいよ」

「今日の私も十分やってるよ」

「こんなペースでも何とかなるって」

 

「無理しないで」...他人には言えるのに、意外と自分には言えない。

 

意外と周りのみんなは何とも思っていないよ。

自分が一番自分を許せないんじゃない?

 

そうひと言、自分に言えたらどんなに楽になるか、ということたっくさんある。

自分の物差しの幅を、少し変えるだけで、解決することたっくさんある。

自分次第なのに。何にそんなにこだわっているのだろう、私?

自分で自分の首を絞めている。

 

もっと臨機応変に。

もっと”幅を利かせて”

 

これが難しいんだな...

 

 

 

「そこに愛はありますか?...だったらそれでいいじゃん!!」