お盆

夏もいよいよ後半戦。

暦の上では立秋を迎えた。

世はお盆。毎年恒例の帰省ラッシュのニュースが流れている。

 

やっと取れたお休みに、混んでいると分かっていても...

新幹線立ちっぱなしでも!渋滞に巻き込まれても!!

それでも帰省する心理。

家族に会いたいから。故郷はほっとするから。

理屈じゃない。

帰るまで一苦労でも、その分チャージできる元気の方が大きいのだ。

祖母はバラが大好きだったな
祖母はバラが大好きだったな

2010年7月

それは突然だった。

92歳のお誕生日をそれは元気に迎えたばかりの祖母が他界した。

 

当時NYにいた私は、その訃報を電話で両親から知らされた。

会えない年月が続いていた。

あと半年で本帰国だから、そしたらゆっくり会えるかな。。漠然とそう信じていた。

実感もないまま飛行機のチケットを必死で探し、急遽一時帰国。

仕事もどうやってキャンセルしたのか、決断という決断をした記憶もなく、気づいたら 日本にいた、という程に自然と行動していたが、数日間という短い滞在でも、

それは私の人生において忘れられない時間となった。

 

ー納棺式。

ふすまを開けるとそこに祖母が眠っていた。

 

「あ、おばあちゃんはここにいない」

 

まず祖母の身体を目にしてそう思ったのをはっきりと覚えている。

 

「おばあちゃんに何か声をかけてあげなさい。」

家族に促されても、それ(身体)に向かって話す気にならない。

ーだってこの中にはもういないよ。

そう思った。

92年という今世での仕事を全うした誇らしげな鎧が、抜け殻が、

何とも穏やかな微笑みを浮かべてそこに置き去りにされている

..という感じに見えた。

 

私はいわゆる霊感とか、そういったものをもっていないから、

このときも何が見えた訳でもない。

それまでも、これまでも、全く。

でも、祖母の安らかな寝顔を覗き込む家族、親戚達を横目に、なぜか視線が上の方へ、

上の方へと泳いでしまう自分に気づいた。

ーもちろん、何も見えない。

 

身体は、身体でしかない。

身体は、私たち自身ではない。

マインドも私たち自身ではない。

 

決して変わらないもの、私たちの本質ー

それは意識・美・真実。それは魂。それはキラキラ。

 

それがあってこそ、本当に輝く。

それがあってこそ、私は私。

 

当時既にヨガをやってしばらく経っていたが、

頭で理解していた事が実感として繋がった瞬間だった。

 

”せっかく身体をまとって呼吸をしてこの世を生きていても、

その内側を震わせてなくっちゃ意味がない。”

 

そのキラキラは、この世を離れても唯一生き続けるものだけれど、

この世にいる間は、そのキラキラは身体を通して伝わってくる。

 

例えばそれは、

子供の輝く真っ直ぐな瞳から。

歌手の透き通るような歌声に乗って。

ここに存在している、意識を持っていると、力強く体現された

生徒さんのタダーサナ(山のポーズ)から。

 

クラス終わりのシャバーサナ(屍のポーズ)で横たわる生徒さん達を前に、

何度もこっそり涙した。

そこにあるのは明らかに身体だけではない、と。

瞬くようなオーラがいかにも放たれているかのようにまぶしく感じた。

 

生きている、って素晴らしい。

 

祖母の身体を綺麗に拭いた。

お化粧してあげた。口紅を塗って、ネイルも塗ってあげた。

長い間、お疲れ様。ありがとう。

そんな気持ちで。

 

実感が湧いてきた。

気持ちの整理が出来た。

その祖母の三回忌が先月行われた。

今回はかわいい甥っ子・姪っ子も連れてみんなでお墓参り。

 

その帰り道には母方の祖父母を訪ね、まさに

家族団らん。親戚が一同に介すと、

”あー間違いなく私のルーツはここだ..”と

クスッと笑えてくるほど似た者同士の集まり。そしていつしかおちびちゃん達も加わって、 大きな時の流れを実感する。

お盆

ーご先祖様が私たちを訪ねて戻ってくるとき

 

改めて、日本にまだまだ根強く残っている風習だなぁと感じる。

先祖を偲び、親戚・家族が懐かしい話に花を咲かせる。

私たちにとって一番身近な繋がりー家族。

’愛’を最初に教えてもらった場所。

近いからこそ忘れがちなその有り難みを確かめあう、

とてもいいきっかけかもしれない。

 

実家に帰ればお仏壇に手を合わせる。

お墓参りに行けば墓前で手を合わせる。

ーでもここにいる訳じゃない、

って思っている。

 

お盆だからきっと来ている。

ーでもいつもそばにいてくれてるよね、

って思っている。

 

 

 

私は、やっぱり残念ながら見えないし、聞こえないんだけれど、

なぜだか以来、いつも祖母がすぐ近くにいて見守ってくれていると思っている。

守られている、という気がしてならない。

思い込みかもしれないけれど、それで元気になれるから、いいんだ。

 

お互いの変化の時期に、10年近くずっと会えていなかった従兄弟たちと、

ひょんなきっかけで毎週会えることになった。

それも、亡きおじさんのお陰だと思っている。

親戚で集まると、本当にいつもいっぱい遊んでくれた。

また私たちを繋げてくれたんだ。そう思っている。

 

ふと亡き義祖父を思う事が多々ある。

一度も会った事はない。

間接的に、話を聞いた事があるだけなのに、

想うだけで深い愛を感じて、熱くなるものがある。

 

そういう人たちに、感謝して、心の中でいつも手を合わせる時間を大切にしたい。